ぷかぷかグラス

 カタンカタン、カタンカタン‥‥


 窓から見える景色が、灰色から緑に変わってく。


 カタタンタン、カタタンタン‥‥


 そのうち周りが緑ばかりになって、ゆっくり流れていく。景色にも、リズムってあるもんだな‥‥

「はい、ぽっぷちゃん。おみかんよ」

「あ、冷凍みかんだ。ありがとう、はづきおねえちゃん

 ‥‥あ〜あ、リズムくるっちまった。そりゃ、無視するわけにいかないけどさ。

 窓から顔を離したら、そこには二つの顔がにこにこしてる。

「まさるくんも、おみかん食べない?」

 まぁ、こっちはいいんだ。むかしからだし。けど‥‥

「冷凍みかん、おいしいよ。まさるおにいちゃん」

 春風の妹に、おにいちゃんなんて呼ばれる覚えはねぇっ!――っても、それ言うとあいつ泣くしなぁ‥‥

 しかたねぇからもらった冷凍みかん、トランペットの上でお手玉してみる。窓の方向いてても、ふたりしてじっと見てんのわかるよ。

 はぁ。まったく、なんだってこんなことになっちまったんだろう?

 最初は、もと美空小の連中でペンションに行く、って話だったんだよな。同窓会みたいにして。

 そしたら春風たちが、知り合いのおばあちゃんがやってるとこがあるから、そこに行こう、ってことになったんだ。

 ペンションの手伝いすれば、ただで泊まれるっていうからおれも賛成したのに、みんな塾の模試だとか田舎のじいちゃんに会いに行くとかで‥‥気がついたら、行くのは俺たちだけになってた。

 けど、なーんかあいつらにハメられたような気がすんだよな。‥‥特に春風とか、小竹とか。

 そりゃたしかに藤原とは、最近あんま話してないんだけどさ。

 それには、それなりの理由があるんだ、ってぇのに。聞きやしねぇ。

 小竹には蹴り一つ入れたってのに、怒るどころか笑って『お楽しみ〜』だもんな。ったく、なに考えてんだかなぁ‥‥


 でも、いまさら中止にゃできねぇよな。手伝う、って言っちまったから。

 窓の外をぼーっと見ていると、海の匂いがしてきた。

 思わず、ペットのシリンダーを確かめちまう。いや、匂いくらいじゃ錆びないんだけどな。

「ねぇ、はづきおねぇちゃん。まだかかるの?」

「そうねぇ。前に行ったときはバスだったから、ちょっとわからないけど‥‥」

 背中でまたボケたやりとりしてるな。

「中伊豆だろ? まだ小田原にもついてないぞ」

 目だけそっち向いて言ったら、あいつはぺろっ、と舌を出して照れ笑い。急いでまた窓の外に目を向けたけど、まだ目の奥に顔が残っちまってる。――ちっ。

 だいたい、いまさら舌出してごまかせる立場かよ。

 観光ガイドにも電話帳にも載ってないペンションに、『バスで行ったことがある』ってだけで行こうとするんだもんなぁ。そのくせ地図出しても場所がわからなくて‥‥結局、春風から簡単な地図もらってなんとかなったんだ。

 そのかわり、よけいなオマケも付いてきちまったけど。

「よけいなオマケ、か‥‥」

 見たいわけじゃないのに、勝手に顔が窓から離れてく。あぁあぁ、格好だけはよそ行きの服だってのに、ちびっこい体でぎゃあぎゃあって、スカートめくりあげちまって。姉ちゃんそっくりだな。

 でも、こいつがいてよかった。もしいなかったら‥‥

「え?」

 ちょっと前が暗くなったと思ったら、目と鼻の先に大きなメガネ。って、おい。な、な、なんだぁっ!?

「うわぁっ!! べ、べつに、よけいってのはそういう意味じゃねぇぞ、その、単に‥‥」

 な、なに言ってんだ、おれ!? これじゃ、まるで‥‥

「ふふ。ヘンなまさるくん」

 そう言って、藤原がまた元の場所に戻ってった。長めの白いスカートがふわっと動くと、花の匂いがやってくる。

 あぁ、びっくりした。心臓がはじけるかと思った‥‥まだ、治まんねぇよ。ちぇっ。


 それにしても‥‥よく考えりゃ藤原のかあさんもヘンなんだよな。おれと旅行に行くって言ったら、喜んでたってンだから。

 中学生の娘が保護者もなしに泊まりで旅行なんて、普通反対しねぇか? どっちかって言うとおれのかあさんの方が心配してるなんて、逆だよなぁ。


 気がついたら、またおれの目にあいつらが映ってた。くだらねぇ話をえんえんやってる二人‥‥おれなんか、いてもいなくても関係ねぇみたいな二人。

 ひょっとすると、おれにそんな、心配するようなことできるわけない、って思われてんのかもな。

 そう思うと、ちょっとだけ、まわりが暗くなるような、そんな気がした。気のせいなのは、わかってんだけど。


 ふわ。なんか、眠くなってきちまった。ここんとこ、まともに寝てねぇからなぁ‥‥

 っていうより、寝たくねぇんだよな。でも‥‥あぁ、目が閉じてくな‥‥

「‥‥るくん、まさるくん?」

 藤原の声で、おれはばっ、と目を開けた。。

 目の前にはメガネの顔。思わず胸をおさえて息をついた‥‥あぁ、よかった。いつもの()()()じゃなくて。

 ぼんやりした頭が、少しづつはっきりしていく。空気の匂いがちがう、ってことは、もう乗換駅ついた‥‥ん!?

「よかった、まさるくん。起きないかと思ったわ‥‥まさるくん、どうかしたの?」

 おれは一瞬、言葉が出なかった。さっきまで、ようやく海が見える、ってとこだったはずなのに、あたりは山。目の前にペンション。後ろには‥‥電車も駅もありゃしない。

 ど、どうなって‥‥!?

「まぁまぁ、ようやく起きたのね」

 藤原の後ろから出てきたのは、おばあさんだった。ちょっと涼しくなったくらいなのに、肩掛けはおって、大きな帽子のせた人。

 顔じゅう笑い顔みたいな、話し好きそうな人だ。

「下の駅に迎えにいったら、よく寝てましたからね。起こすのもかわいそうなので、ここまで乗せてきたんですよ」

 ‥‥あ、あぁ。そういうことか。乗換駅から、そのまま車で来た、ってことだな。

 おれはすぐ、頭下げた。こいつらと3人分も、もう迷惑かけちまったのか。

「いいのよ。私も、久しぶりに乗りましたからね。いい練習ができましたよ」

 ‥‥って、こんな山奥でペーパードライバーかよ。危ねぇおばあちゃんだなぁ。

「まさるくん、この方が、ペンションのオーナーの、リリカおばあちゃんよ」

 リリカ? リリカって、どっかで‥‥ああ!

 この人が、巻機山のおばあちゃんかぁ。

 おれはまた、ぺこっと頭を下げた。わるいひとじゃない、ってのは、見ただけでもわかる。

「それじゃあすみませんけど、今回もよろしくね」


 だから、手伝いなんて簡単だろう、と思ってたんだ。このときは。

「まぁまぁ、お疲れさまでした」

 壁によっかかって休んでると、頭の上からのんびりした声が響いてきた。リリカおばあちゃんが、おれの前に麦茶入りのコップを置いてくれてる。

 けど、おれはもう返事する気にもなんねぇや。

「やっぱり男の子ねぇ。全部ひとりでできるなんて」

 言われて、おれはまわり見回した。

 首動かさなきゃ全部見えないくらいの、大きなジャングル風呂。

 風呂の掃除がこんなに疲れるなんてなぁ‥‥ここについたのは昼間だってぇのに、もう夕日も見えなくなっちまった。

 春風たち、これ知ってて逃げたんじゃねぇだろうな?

「でも、はづきちゃんも一緒でよかったのだけど、ねぇ。部屋の方の掃除は、そんなに大変じゃないから」

 ああ、たしかにひとりでやる、って言ったのはおれだよ‥‥けどそりゃ、藤原が悪いんだ。いっくら風呂掃除でぬれるからって、おれの目の前で、いきなりスカートたくし上げたりするから‥‥って、うわぁっ!?

 目の前がリリカおばあちゃんの顔でいっぱいになって、おれは思わず壁に貼りついちまった。

「え、な、なん‥‥ですか?」

 おばあちゃんはおれの目を覗き込んでから、すぅっと離れて、

「ふふふ、べつに。それじゃ、お湯入れますからね。ゆっくりつかってくださいね」

 そのまま、湯船の蛇口を開けて出て行った。

 おれはその後ろを、真っ赤になりながら見送った。


 なんとなく、見られたような気がしたんだ。おれの、心のなか。

 脱衣所で服脱いで戻ってくると、湯船には少しだけお湯がたまってた。

 硫黄かなんかのにおいがする。一応、ちゃんとした温泉なんだな‥‥ 熱いお湯が、蛇口からどどっと落ちてくるのを眺めながら、おれはそんなことをぼーっと考えてた。

 今日は9月の18日。連休だってのにお客が誰もいないから、変なものでも出てくるんじゃないかと思ってたけど、そうじゃないんだな。

 ごつごつした岩の湯船に、お湯がゆっくり広がってく。外はもう暗くて、脱衣所の明かりと月明かりが水面に反射してる。

 きらきら、きらきら‥‥

「よぉーし、いっちばーん‥‥って、あれ、まさるおにいちゃん?」

 あっちゃあ。来ちまったよ。春風の妹。

「悪ぃな。先に入ってるよ」

 脱衣所の方を見ないで手だけ振ったけど、声がそのまま近づいてきた。

「べっつにいいって。あたしまだ子供だし。はづきちゃんの彼氏なら、見られてもへいきだもーん。
 ちゃんとした彼女もちが、小学生に手なんか出さないでしょ?」

 おれは思わず、頭かかえちまった。

 なんていうか‥‥小5の頃の春風って、こんなのだったっけ?

 まぁ、こいつが気にしないならいいか。言ってる通り、おれのほうは別に意識なんてしないしな。

「よいっ、しょ‥‥あいてて」

 飛び込むなよ、ってもう遅いか。

「いま入れはじめたばっかりだから、からだ洗って待ってろよ。
 耳の後ろまで、ちゃんと洗うんだぞ」

 湯船に入って岩に腰かけて、もうすぐ膝ぐらいまでくるお湯を感じていたら、肩にぽん、と手の感触があった。

「やさしいんだ、まさるおにいちゃん。
 さっすが、はづきちゃんの彼氏だよねー

 やさしい、か‥‥

「え? なんか言った?」

 おれは春風の妹に背中向けて、そのまま、たまっていくお湯を見つめて、

「べつに‥‥」

 ちょっとだけ顔を上げてから、首を振った。


 だったら、あんな夢見るわけないんだ。そう、もしやさしかったら‥‥

 お湯がたまったのを見計らって、おれは蛇口を閉めた。

 とたんに、あたりがしん、とする。

 脱衣所の灯りと、月や星の明かり。それで湯船がすこし光って見える。おれはその中につかって、窓の外の星をぼーっと眺めていた。

 頭の中に、風景なんて映ってない。さっきっから、同じことをぐるぐる考えてんだ。


 藤原は、なにしにここへきたんだろう?


 最初は、同窓会だった。そこまではいいんだ。おれも、だから来たんだし。

 けど‥‥いっくら約束したからって、おれとふたりになってからも来ようとするってのが、よくわかんねぇ。ずっと楽しそうで、意地になってるようにも見えねぇし。

 おれといるのが楽しい、なんてうぬぼれちゃいない。

 あいつはここんとこ、学校から帰るとすぐにMAHO堂寄ってるんだ。もう空き家のはずのMAHO堂、そこで、誰かと会ってる。ほとんど毎日‥‥って、それ見てるおれも自分で嫌になるけどな。

 でも、相手はおれじゃないんだもんな‥‥


 カチャカチャン‥‥


 ん?

 ああ、春風の妹か。そういえば、こいつも謎だよな。なんのために来たのか‥‥姉ちゃんはいないし、藤原はともかく、おれもいっしょに来てるってのに。

「なぁ‥‥」

「ぽっぷ!」

 え?

 呼びかけようとしたら、なんだか怒ったような声にさえぎられた。なんだ?

「人の名前は、ちゃーんと呼びましょう、って、教わったでしょ?」

 むすっとした顔で、こっちにらんでるよ。おれも5年のころは、こんな風に見えたのかな‥‥

「悪ぃ。じゃ、ぽっぷ。ぽっぷは、なんでここに来たんだ?」

「それはねぇ‥‥じゃーん!」

 なんだ?

 両手になにか持って、こっちに伸ばしてきたぞ。手の中にあるのは、透明ななにか‥‥

「グラスだよ、グラス」

 ああ、言われてみりゃ、たしかにグラスだ。ブランデーグラスだっけ? わりと大きなヤツ。カチャカチャいってたのはこいつだったのか。

 けど、グラス持ってなにやってんだ? 夜に風呂場でなんて。

「グラスはねぇ、浮かぶんだよ」

 いきなり言われて、おれはちょっとだけびっくりした。

「あ、ん?」

 とっさに、言葉にならなかった。なに言ってんだ、こいつ?

「あたしは、ガラスが好きなの。けど、お風呂のおもちゃなんて、み〜んなプラスチックなんだもん。手ざわりわるくってさ」

 言いながら、グラスの中にピンク色の水を注いで、それをお湯の方に持っていってる。

「だから、ときどきグラス持ってきて、お風呂で浮かべてるの‥‥ほら、浮かんだ♪」

 見上げたこいつの顔、浮かんでるピンクのグラスに映って、薄暗い中なのに輝いて見えた。

 ‥‥思わず、少し下がっちまうくらいに。

「家でやると、あとで怒られちゃうんだけどさ。ここでなら、思いっきりできるもんね。
 さぁ、あと10個、浮っかべるぞぉ♪」

「‥‥そっか」

 こいつはこいつで、楽しみがあって、やりたいことがあって来たんだな‥‥

「まさるおにいちゃん?」

 2つめのグラスが、風呂に浮かんでる。今度はみどりのグラスか‥‥

「あ? なんだ?」

 3つめのグラスに色つきの水を入れてるのを、おれはぼーっと眺めてた。

「はづきちゃんも、きっと同じだと思うよ」

 なっ!?

「はづきちゃんもさ、きっと、ここでしかできないこと、しに来たんじゃないかな?」

 3つめのグラスが、ゆらゆらこっちに流れてきて‥‥おれはぱっ、と目をそらした。

 なんでだ? そのグラスの中に、あいつの顔が映って見えるなんてよ‥‥

 目の前に、藤原がいた。

 なんだかふわふわした感じの世界だな‥‥あ、しまった。おれ、寝ちまったのか?

(まさるくん‥‥?}

 だめだ、目を覚まさないと。このままじゃ‥‥

(‥‥まさるくんっ!?)

 やめろ、矢田まさる! こんなのは嫌だっ!!

(‥‥まさるくんっっ!!)


「はづきぃぃっっ!!!」


 思いっきり開いた目に、薄暗い湯船が映った。

 息が上がって、のどがカラカラだ‥‥けど、なんとか、ギリギリで、起きられたな。

 あとちょっと遅かったら‥‥寒気がする。嫌だ、考えたくないっ!

「どうしたの、まさるくん!?」

 ‥‥ん? そういやさっきから、背中に、なんか当たって‥‥

 うわぁっ!

「な、なん、はづき!?」

 がばっ、とお湯から立ち上がろうとしたおれの両肩が、しっかり押さえられてた。

 背中には、まだタオルの感触がある。

「ねぇ、わたしがいったい‥‥?」

「べ、べつにっ!」

 また立ち上がろうとしたところで、首になにかひっかかった。

「ぐえっ!?」

 足が滑って‥‥気がついたらそのまま、湯船に仰向けに浮いていた。

 真上に、あいつの顔がある。くもったメガネをお湯でぬらして、またかけて、じっとおれを見ながら、

「まさるくん、ここのところずっと避けてるでしょ、わたしを」

 思わず、つばを飲んじまった。タオル巻いたはづきのからだが、ほんの数cmのところにある‥‥ダメだっ!

「ほら、またむこう向いちゃうし。‥‥なんでなのかな、って、ずっと考えてた。もしかしたら、美空中に好きな子ができたのかな、とか。
 でも、どれみちゃんに聞いても、そんなことない、って言うのよ」

 首を両手でしっかり押さえられて、じっと目を見つめられてる。これじゃ、もう目をそらすこともできねぇ。


「ねぇ、わたしを避けてたのって、いま見てた夢と関係、ある?」

 くっ‥‥!

 そうだよ。こいつは昔っからカンのいいやつなんだ。それも、なぜかおれにだけ。

 でも、言うわけにいかない。これだけは‥‥

「ふ、()()こそ、いつもMAHO堂で誰かと会ってるじゃないか。そいつでいいだろ?
 おれはそんなに特別じゃないっ! なんでそう、いつも会ってなきゃいけないんだよ!?」

 ほとんど息しないで、一気に吐き捨てた。ああ、ストーカーまがいのおれだ。嫌いになれよ。どこでも行っちまえ。

 ‥‥そうなっても、知られるよりましだ、っ!

「ふぅ」

 おれは目をつむって、待ってたんだ。怒鳴るか、殴るか、泣いて出て行くか。

 でも、はづきはため息ついて、それから少し、首を抱えてる手に力が入った。

「温泉に、家族じゃない男の子といっしょに行って、同じお風呂入ってるのよ? わたしが、どれだけどきどきしてるか、わかる?」

 目を開けたおれの前には、微笑んでるはづきがいる。

「たしかめて、みる‥‥?」

 首を押さえてた手が、そっと外れた。それと同時に、おれの右手がゆっくり上がって、タオル越しに、はづきの‥‥っ!!

「や、やめてくれぇっっ!!」

 はづきの手を跳ね飛ばして、おれは立ち上がった。あいつに背を向けて。

「おれはイヤなんだ。‥‥はづきが泣くの、いやなんだよ!」

 背中で、じっとこっち見てるのがわかる。ああ、もうダメだ、止まらねぇよ!

「ああ、そうだよ。はづきが夢に出てくるんだ。毎晩、毎晩っ!
 そんなことしちゃいけないって、泣いてるはづきは見たくないって、夢の中で叫んでるんだ。なのに気がつくと‥‥おれは、楽しんでるんだよ。
 おれが‥‥はづきにいやらしいことして、楽しんでるおれがいる! 嫌だ‥‥おれは‥‥()()()()()は絶対に許せないっ!!」


 叫び声が、風呂場に響いてる。おれの声だけが、何度も、何度も。


 声が消えるのといっしょに、腹がぎゅっと締められた。やわらかいものが、背中に当たってる。

 おれは、もう、動けなかった。

 いったい、何分経ったんだろう?

 おれの背中が、ちいさな息の音と一緒に、やわらかく動いてる。脈打つ音が、体に響いてきてる。

 さっきと違う。おなじもののはずなのに。今はそれを感じてるだけで落ち着いてくる。さっきみたいに、血がひとところに集まる感じじゃなくて。

「こんなの、わたしじゃない?」

 え?

 静かな風呂に、突然はづきの声が響いた。

「それじゃ、わたしって、どんなひと?
 ‥‥泣き虫?」

 ‥‥いや。

 おれは首を振った。よく泣くけど、泣き虫なんかじゃねぇ。

「おとなしい?」

 ‥‥いいや。

 おれはまた首振った。そりゃ騒がしくはないけど、よく動くし、おとなしくなんか‥‥

「いつでも笑ってる?」

 ‥‥ちがう。

 やっぱり、おれは首振った。怒ったり、泣いたり、いろんな顔があるやつだよ。

「いつも優しい?」

 ‥‥

 ちょっと考えてから、おれはしっかり首を振った。

 そうだ。他のやつらが思ってるほど、こいつはベッタベタに優しいわけじゃねぇ。

「そうよ」

 腹に回ってる手に、力が入った。

「いまの全部に違うって言えるのは、まさるくんだけ。どれみちゃんでさえ言えないわ。
 本当のわたし‥‥そんなのがあるとしたら、それを知ってるのは、まさるくんだけなのよ」

「そうか‥‥」

 思わず、想いが口に出た。そうだ。背中にいるのは、本物の『はづき』は、夢の中の女じゃないんだ‥‥

「ありがとう、まさるくん。話してくれて。
 もう少し待ってて。私も、みんな話すから。勇気できたら、きっと話すから‥‥」


 くらっ‥‥


 な、なんだ? いきなり足元がゆれたような気がしたな。

 やべぇ、おれ、そんなに長湯してたんだ‥‥

「まさるくん、いま、ゆれなかった?」

 なに?

 おれがうなずくと、はづきがおれから手を離して、心配そうにあたりを見回した。おれの気のせいじゃないのか。じゃ、いったい‥‥

「たいへんたいへん!」

 考えてるといきなり、脱衣所から血相変えたぽっぷが飛び込んできた。

「たいへんだよ、はづきちゃん! うちに帰れないって!」

 なんだって!?

「どうしよう‥‥明日は戻らなくちゃいけないのに」

 客間に戻ってきたおれたちが見たのは、窓の外の風景だった。

 道が、半分なくなってる。

 よく見りゃ、外は大雨だ。風呂にいたときはまるっきり気がつかなかったのに。

「電話は‥‥」

「ごめんなさいね。ここには電話ってないのよ」

「携帯もダメみたい。圏外になってるよ」

 リリカおばあちゃんの背中から、ぽっぷが声かけてきた。

 弱ったな。おれはまだいいけど、はづきにズル休みさせるわけにも‥‥

「そうねぇ‥‥はづきちゃん。()()()?」

 ん?

 リリカおばあちゃんが近づいてきて、はづきにそういった。こんなときでも笑顔のままで、ちょっとイラっとしたけど‥‥はづきが、なんだか妙な顔してるな。

「‥‥まさるくん、ちょっと、いい?」

 たっぷり何分か考え込んでから、はづきが言った。

「え? おれか?」

 こくっ、ってうなずいたあいつの顔、すごく固かった。

「もし‥‥もしもよ? いますぐ美空町に帰れる、って言ったら‥‥どうする?」

 なに!?

 冗談‥‥って言おうとして、おれは開きかけた口を閉じた。はづきの後ろに立ってたぽっぷが、じっとこっち見つめてる。

 シャレじゃねぇんだ。これは。

「まさるくん、お願い。答えて‥‥」

 はづきとぽっぷの真剣な顔を見てると、だんだん落ち着いてきた。

 感じるんだ。はづきが勇気を出してるのが。

「条件は?」

 びっくりした顔のはづきに、おれは言った。

「タダで帰れるわけじゃないんだろ? でなけりゃ、行きだってそれで来れたはずだもんな。
 ‥‥で、帰る条件って、なんだ?」

「条件はね、あなたの覚悟ですよ」

 答えは、背中から来た。

 リリカおばあちゃんが、おれとはづきの肩に手を置いてたんだ。

「覚悟って‥‥」

 肩から、すっ、と離れた手が、おれの背中にふれた。おばあちゃんはそのまま、部屋の隅におれたちを連れて行って、

「さぁ、ここよ」

 目の前に、とびら。ボロいわけじゃないんだけど、妙に古い感じがする。けどこれ、どっかで見たことあるな‥‥あぁ、はづきたちのたまり場、MAHO堂で見たんだ。いつも閉まってる、おかしなとびら。あれと同じだ。

「はづきちゃん、いいのね?」

 藤原が固い顔でうなずくのと一緒に、目の前のとびらが、開いた。

 とびらの向こうは、廊下。その向こうに大きな部屋。なんか、見覚えのある‥‥っていうか、これ、

「MAHO堂‥‥」

 言った瞬間、はづきがびくっ、とした。

 ‥‥ってことは、本物、か。


 ごくっ、て音。つば飲んだ音が、頭に響いた。

「さぁ、覚悟はいい? ちゃんと考えて、自分の意志で決めるんですよ」

 リリカおばあちゃんの声が、厳しくなった。さっきまでの、のんびり声じゃない。

 おれは、おばあちゃんにだけ見えるように、そっとうなずいた。そして、ゆっくり息を吸ってから、またとびらに向き直って、

「藤原ぁ」

「な、なに?」

 びくっとした動きが、ちょっとだけおかしく思えるな。

「おまえ、小一のころ、おねしょしたよな?」

「な、な、なに!?」

 おろおろした顔を見てると、おれの胸が落ち着いてくるよ。‥‥さっきのおまえも、そうだったのかな。

 おれは、ちらっとおばあちゃんを見た。にこにこ笑ってる顔が、ほんのちょっとだけ、うなずいてる。

「ブランコが高く上がりすぎて泣いたり、ジャングルジムから降りられなくなったり、あと‥‥」

「やーっ! まさるくんのバカっ! もう、いきなりなに言い出すのよっっ!!」

 両手を上げて何か投げようとしてるあいつに背を向けて、気づかれないように息をひとつ飲んでから、おれは足を出した。

 足が、扉の向こうにつく。いまおれは、普通の人間が通れないところをまたいでるんだ‥‥

「‥‥だからさ、知ってる秘密がひとつ増えたくらいで、おれがびびるかって。
 ばかにすんなよ。()()()

 ぱたん。

 とびらがしまる音が、静かな家に響いた。

 外には、笑ってるみたいな月が浮かんでる。少しだけ吹いてる風は涼しい感じで、湿気なんかぜんぜんない。

「こっちは、雨降ってないんだな‥‥」

 傘なんか持ってきてねぇし、よかったけど‥‥とびら一つむこうが大雨だ、ってのは妙な感じだよな。

「はづきちゃーん、テレビ見てみて」

「え?テレビ??」

「ほら、ニュース番組とかさ、早く早く☆」

「ええ、いいけど、いったいなに‥‥あら!?」

 はづきたちの声をBGMに窓の外を眺めてたけど、いきなり妙な声が混じってきた。なんだ?

 声のする方に行ってみると、ふたりでまじまじとテレビを見てた。肩越しに見えるのはニュース番組。指さしてるのはアナウンサーの後ろの、今日の日付があるところ。9月‥‥17日だってぇ!?

「お、おい。これって、昨日の日付じゃ‥‥」

「あ〜ぁ、やっちゃったぁ」

 ぽっぷが軽い声で言った。理解してないのか、こいつ?

「まえにね、ももちゃんのいるMAHO堂に行ったときもそうだったのよ。ムリにとびら開けると、時間違っちゃうことあるみたい」

 はづきも、なんか苦笑いしかけの声で答えてる。おれは、ちょっとだけ頭抱えちまった。

「ん〜、ま、いっか。一日得したと思えば。
 じゃ、あたしは帰るから。おふたりさん、ごゆっくり〜」

 ああ、これがこいつらの常識ってことか。理解できねぇわけ‥‥って、『帰る』だってぇ!?

「ちょ、ちょっと待てぽっぷ。家には()()()がいるんだぞ!?」

 思わず肩をつかもうとしたのを、ぽっぷがぴょん、っと避けやがった。

 そのままおれたち見て、ニカッ、って笑ってる。この笑い方見たことあるぞ‥‥そう、こいつの姉ちゃんがイタズラしてるときと同じ、だ。

「知ってるよ〜。だってねぇ‥‥昨日、いっしょに寝たんだも〜ん♪」

 なに!? ってことは‥‥こいつ最初から、こうなること知ってたのかよ!!

 あ、こら、まて‥‥あ〜あ、行っちまった。


「どうする、まさるくん?」

「ああ、うん‥‥ はづき、お前きのう、自分に会ったか?」

 おれは、はづきの顔をじっと見つめた。答えなんかわかってるのに。

「じゃ、じゃぁ、しかたねえよな。今日は、ここに泊まるとすっか」

 おれはそのまま部屋を出ようとした。ふとんとか、探さないといけないしな。どこに‥‥あん? なんか、腕がひっかかってる?

 くいっと腕を上げようとしたら、はづきがついてきた。服の腕のところを、きゅっとつかんで、おれの顔を見ながら首を振ってる。

「しかたない、じゃダメよ。ね?」

 あ、っちゃぁ‥‥ごまかしきれなかったか。

「あ〜‥‥だめだ、参った!」

 おれが両手を上げたとたん、にっこりしながら耳に手をあてて、次の言葉を待ってるよ。ちぇっ。

 息を大きく吸って、まっすぐ顔を見て。MAHO堂の匂いが、がんばれって言ってるような気がする。よし!

「はづき‥‥ひと晩、一緒に泊まってくれ」

 こっくりとうなづいた顔が、とっても幸せそうに見えて、おれは思わず目をそらしちまった。


 おれを追い越して、二階に上がっていくあいつのうしろ姿を見ながら、おれは思った。


 あぁ、今日は今までで一番、気持ちよく眠れそうだ。

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