キスのおくすり

 授業が終わって、美空中からの帰り道。オレはいつもと違う道を歩いていた。

 家に帰るのとも、河原に下りるのとも違う、いつもは通らない坂道。そこをしばらく歩くと、古い家が見えてきた。坂道の途中、一段低くなってるとこに。

「はぁ‥‥」

 息をついてから、あれ、と思った。ついこの間までは目の前が白くなったのに、今はよっぽど早起きしてもそうならない。‥‥まぁそうか、あとちょっとで春休みだもんな。

「もう中3、か‥‥」

 軽く伸びをしたはずみで肩にかけてるバッグがずれたのを、オレはあわてて抱きとめた。中のトランペット、こんなドジで壊しちゃたまらない。


 ドジ、か‥‥


 オレはまた、古い家を見た。坂から階段を降りてくと、だんだん大きくなっていく家。そこの玄関から、丸めがねの小さな()()()が飛び出してくるような気がする。

「ずいぶん、ドジやってたよな。ここで」

 思わず顔が崩れるのが自分でわかる。けど、それもため息ひとつでもとにもどっちまった。

「それが、いまじゃあ‥‥」

 頭を振って目を上げると、すぐそこに古い家。表札もなにもないけど、2年前まで屋根に看板がかかっていたんだ。


 『MAHO堂』っていう、看板が。

 玄関のドアノブを回すと、すっ、と音もなくドアが開いた。鍵もかけないなんて、無用心だな‥‥まぁ、普通の家じゃないのはオレも知ってるけどな。

 MAHO堂にいた巻機山たちが引っ越して、もう2年。いまじゃ空き家になったこの家には、ほとんど人が寄り付かない。オレだって、はづきがたまに入っていくのを見たことがあるくらいだ。


 一応、内側から鍵かけて、オレは部屋の奥に向かった。知ってる場所はそんなに多くない。目的地は奥にあるとびら‥‥部屋の間取りを考えりゃ、外に出るだけのとびらだ。

 けど、そのとびらの前にはクッションが置いてある。オレはそこに座って、とびらに背中をあずけた。

「この先が、伊豆なんだよなぁ‥‥」


 コンコン


 指で叩いても、軽い音が返ってくるだけ。だけど、オレはこのとびらを通ってこの家に出てきたんだ。なん百キロも離れたとこから。


 コンコン


 もう一度とびらを軽く叩いて、オレは苦笑いした。特別な条件がそろわないと開かないとか、はづきも言ってたのに。なに期待してんだろな、オレ‥‥

「Hello‥‥はづきちゃん?」

 ‥‥な!?

「う、うぇぁああ!」

 な、なんだ、なんだ!? ああ、ええと、たしかこんなときは‥‥そ、そうだ!

「マジョリカマジョリカマジョリカマジョリカマジョリカマジョリカ‥‥!!」

 あとで考えると間抜けだけど、このときのオレには逃げるって考えがなかった。その場で両手合わせて、ずっと前に はづきから教わった呪文となえて‥‥そしたら、声が聞こえてきたんだ。

「ほぇ? ‥‥あ、それっテたしか前に、はづきちゃんが‥‥だトすると。そっカ。  ひょっとしテ、矢田クン? そこに居るノ」


 え?


 自分の名前呼ばれて、一瞬頭の中が空っぽになった。

 空っぽの頭に、さっきの声がしみてくる。

 聞き覚えあるぞ、この声。それにこのイントネーション。ずいぶん前だけど、今でも覚えてる。これは‥‥

飛鳥(あすか)‥‥か?」

「Yes! ひさしぶりダね、矢田くん」

 とびらの向こうから、飛びついて来そうなくらいの声が響いてきた。こいつも、変わってねぇなぁ。日本語に英語が混じってるのもあいかわらず‥‥っと、そりゃそうか。

「ああ、久しぶり‥‥ってことはいま、このとびら、アメリカに繋がってるのか?」

「うン‥‥Wow! Wait a moment!! ちょ、ちょっト待っテ!」

 なんだ? 明るい声がいきなりあわて始めたぞ?

 ‥‥ああ、そっか。そうだったっけな。

「心配しなくていい。オレ、知ってるから。  こないだ、伊豆のリリカおばあちゃんのペンションから、()()()通って帰ってきたからな」

 このとびらがどこかに繋がってるのは、()()()()()()んだった。‥‥まいったな。はづきの()()にオレも染まっちまってるよ。


 ‥‥お、向こうで思いっきり深呼吸してる音がする。ちょっとは、落ち着いたかな。

「そうなんダ。はづきちゃんも、知ってるノ?」

「ああ、はづきに教えてもらった。それと、オレはこれがなんなのかは知らねぇし、はづきにも訊いてない。言っちゃヤバいことなら、言わなくていいからな」

 言いながら、オレは小学生の頃を思い出してた。秘密基地ってのは、勝手に暴いちゃダメだよな。

 ‥‥ん? なんか向こうから、クスクス笑い声が聞こえてくんぞ?

「あはハ‥‥ああ、ごめんネ。昔の矢田くん、ワタシたちには はづきちゃんのこと『藤原』って呼んでたのニ、今は『はづき』なんだもん。ちょっと、面白くっテ」

 オレは思わず、手で頭おさえた。そうだった。こいつは妙なとこ気が回るヤツだったっけ。

 ‥‥はぁ。まぁ、いいか。春風じゃねぇし。

「べつに。2年もすれば、呼び方だって変わるさ」

「ふ〜〜〜ン?」

 なんか、言いたそうな声だな。ああ、そうだ。

「はづきなら、今日は用があるから来ないって言ってたぞ」

 だから、オレは来たんだもんな。

「そうなんだ。Thank you‥‥ でも矢田クンは、今日なんでここニいるノ? わたシが居るなんて、知らなかったンでしョ?」

「ああ、そりゃあ‥‥」

 言いかけて、口が勝手に閉じていった。

 ごまかす気になればいくらでも言える。けど、オレはそんな気になれなかった。なんとなく、だけど、いま飛鳥と話してるのは偶然じゃない気がする。

 ‥‥それに、どうせ日本とアメリカだ。顔合わせるヤツより、騒がれる心配もない。

 オレは胸に手をあてた。ペット吹くつもりで息を吸い込んで‥‥よし。

「実は、逃げてきたんだ。はづきから」

 ニューヨークのMAHO堂。そのとびらによっかかって部屋を見回しながら、わたしは矢田くんの言葉を聴いてた。

「逃げたノ? ‥‥はづきちゃんから??」

 タオルケットじゃ、まだ少し寒いな‥‥なんて思いながら、とびらの向こうで答えてくれるまで、ホットチョコをひとくち飲み込んで、

「Why? 逃げるなんて‥‥」

 静かに訊ねて、また黙ってみた。

 さっきの声、すっごく小さいけど、真剣な声だったな。だから、わたしも真剣に聴かないといけないよね。たとえ‥‥

「あいつ‥‥最近、きれいなんだよ。化粧とか始めたみたいで‥‥近づくと、いい匂いがするしな」

 ‥‥たとえ、聴いてて体がかゆくなっても。

「オレはあんま、化粧とか香水とか好きじゃないんだけど、あいつがつけてると、こう‥‥ああっ、うまく説明できねぇなぁ」

 でもまぁ、それも限度はあると思うんだ、わたし。

「矢田クン」

「ん?」

「キスとか、したァ?」

 できるだけ、のんびりした声で言ったら、とびらの向こうから ()()()音が聞こえてきた。

 それじゃ、もうひとつ。

「はづきちゃんと、キスとか、したぁ?」

「い、いや‥‥その、べつに‥‥あれば、キスとか言っても、その‥‥」

「しタんだ」

 矢田くん、ちょっと黙っちゃったみたい。

 わたしはまたホットチョコをひとくち飲んだ。のどから下にあったかいのが流れていく。

「ア、アメリカでもするだろ? そっちじゃ、挨拶がわりに誰にでもキスするって言うじゃないか!!」

「Nonsence! そレ、偏見だヨ!」

 あ、いっけない。ちょっと強く言い過ぎちゃったかな? でも、ひどい誤解だもんね。

「‥‥そう、なのか?」

「Yes! パパやママと、ほっぺとかおでこにはよくあるケド、挨拶でくちびるにはしないヨォ」

 また言葉をのんびりに戻してみたけど‥‥あれ? 黙っちゃったな?

「‥‥オレも、それだよ」

 またカップに口つけようとしたとき、やっと答えが返ってきた。

「キスしたって言っても、ほっぺたにしかしてねぇよ。それも、春風と小竹に乗せられてな!」

 ‥‥ふぅ。やっと言ってくれた。そういえば、どれみちゃんがこの前そんなこと言ってたっけ。


 それじゃ、まとめてみよっか。

 はづきちゃんがきれいになって、近くに来るといい匂いで、キスはしたけどほっぺにだけ。


 ()()、か。ふぅん。

「な〜んダ。はづきチャンと、ちゃんとキスしたイんだ、矢田クン」


 ダンッ!


 言ったらいきなり、とびらから大きな音が響いてきた。叩いたのかな。

「おかしいんだよ、もぅ! あいつがそばに近づいて来るたびにキスしたくなるなんて。これじゃ変態じゃないか!!」

 変態‥‥ね。

「だから、このとびら開けられるリリカおばあちゃんなら、なんていうか‥‥そういうの(おさ)える呪文とか薬とか、知ってるんじゃないかと思ってさ」

 それで、呪文にくすり、かぁ‥‥はぁ。

 扉の向こうに聞こえないように、わたしはため息ついた。


 思ってたより、重症みたいだね。矢田くん。

 夕日でオレンジ色の部屋の中で、オレは手のひらさすっていた。

 さっき、思いっきりとびら叩いちまったもんなぁ‥‥おお、痛て。

「デさ、矢田クン。それ、なにがいけないノ?」

 ちょっと痛みが薄くなってきたな、と思っていたとき、とびらの向こうからまた のんびりした声が聞こえてきた。

「いや、なにがって‥‥こう‥‥わかるだろ?」

「I can't understand‥‥わからないヨ。だって矢田クンは、はづきチャンとつきあってるんでしョ?」

 けろっとした声で言うもんだから、オレは思わずくちびるに力が入っちまった。

 そうだよ。1年ちょっと前のクリスマス、はづきの通ってるカレン女学院のパーティに一緒に行ったら、唯一の男女ペアでの参加ってことで‥‥それから美空中でも公認になっちまったんだ。

 けど、あとではづきに訊いたぞ。それ全部、

「‥‥お前らのせいだろ?」

 思い出したら、腹の中が嫌な感じになってきたじゃないか。

「後悔してる、とか、言わないヨネ?」

 すごく小さい声が聞こえてきて、オレは思わずため息ついた。

 わかってる。わかってんだよ、悪気ないってのは。特に、飛鳥(こいつ)は‥‥はぁ。

「してねぇ。けど、感謝する気もねぇからな」

「いいヨ。はづきチャンが幸せだったラ‥‥おっト、話そらしちゃダ〜メ!  つきあってるGirlfriendとキスしたいのって、当たり前のことじゃないノ?」

 飛鳥の言葉聞いてたら、顔が熱くなってきた。つきあうつきあうって、繰り返して言うなよ、こいつは。

「好きなもんが近くに来たらかぶりつく、なんて、春の犬や猫じゃないか‥‥」

 言ってる途中で、クスクス笑ってる声が聞こえてきた。なんかイラつくな。

「じゃあ、たとえバ。はづきチャンの中身がわたシだったら、キスしたい?  はづきチャンと同じ顔で、同じ匂いで矢田クンに近づいたラ‥‥」


「絶対、しねぇ」


 言ったのがオレだって、しばらく気がつかなかった。飛鳥が言い終わる前に、勝手に口が開いてたんだから。

「そうソウ、こうやって話すくらいには嫌いじゃないわたしでも、ネ? ‥‥ホラ、もう答え、言ってるじゃナイ。  矢田クンは犬や猫じゃないヨ。矢田クンは、好きなはづきチャンと()()キスしたい、人間だモン


 クスクス笑う飛鳥の声。さっきと同じはずなのに、さっきより柔らかい感じがした。

「ふわ‥‥ァ」

 なんだ? 妙に眠そうだな。ああ、そういや、飛鳥がいるのはニューヨークだったっけ。時差は、たしか14時間‥‥ ちょっと、待てよ?

「飛鳥。おまえ、なんで起きてるんだ? こっちが夕方の5時ってことは、そっちは真夜中の3時じゃないか?」

「あ、あははハ。バレちゃったネ?  というわけデ‥‥オ〜い、聞こえタ?」

 ん? な、なんだいきなり?

「聞こえてるから答えてンだろ? なに言って‥‥」

「No, It's not such meanin'‥‥ ァん、矢田クンに言ったわけじゃないよォ  聞こエた? ()()()()()()

 なにぃ!?

 がばっと起き上がって周りを見てみる。ソファーにテーブル、隣のキッチンの中、どこにも、誰の気配もないぞ?

「ちょ、ちょっと待てよ! ここにはオレしか‥‥」

「そこじゃなイよ。‥‥ほラ、はづきちゃん。聞こえてたンでしょ?」


「なんで‥‥」


 ほんの一言だけだけど、俺の耳に聞きなれた声が響いた。この声、間違いねぇ‥‥!

「はづき!? お前、いったいどこに‥‥」

 言いかけた途中で、とびらからコンコン、って音が響いてきた。

「あハハ。このとびらネ、繋がってるのはアメリカとリリカおばあちゃんのトコだけじゃないヨ。はづきちゃん、今日はおんぷチャンの事務所に居るんだったヨね?」

「もぉっ! なんで言っちゃうのよ、ももちゃん!!」

 今度ははっきり、はづきの声。確かにとびらの向こうで、飛鳥と違う場所から聞こえてくる‥‥これが、はづきの今日の用事だってぇ!?

「しょうがナイじゃなイ? 矢田クン、こんな真剣に悩んで話してくれてルんだモン。はづきチャンだけ隠れて聴いてルなんて、フェアじゃないヨ  さァ、あとは恋人同士で話し合ってネ。わたシ、もう聞かないで寝ちゃうから。それジャ


 一気にまくし立てた声が消えると、いきなり、静かになった。

「ええと‥‥まさる、くん?」

 静かな中に、はづきの声だけが小さく響いてる‥‥ってつもりか、飛鳥(こいつ)

「はづき、ちょっと待って」

 じっと耳を澄ますと、聞こえてんぞ、ほんのちょっとだけ息の音。わくわくしながら聞いてる雰囲気。


「聞いてないって‥‥誰が信じるかぁぁっ!!」

『小説?小噺?』へ戻る