二月十四日 午後ヨリ小雨


二月十四日、午後より小雨。

土手際(どてぎわ)にある小さな階段を降りると、薄い下草の先に川が広がる。

私の午後の散歩は、そこで折り返しとなる。

小雨の中は歩きにくい。

白い着物が濡れるのはまあ気にしないが、濡れた(すそ)が重くなり、
歩きにくさを増してゆく。まして足元の草履(ぞうり)は、濡れた草の上
では滑りやすい。

だからかもしれぬ。

普段からよく見る風景、よく見る川と草花たち。
その中に一つ、見慣れないものを見つけた。

カツン

違和感のあった足元を見ると、なにやら茶黒いかたまりが落ちている。
珍しくも犬猫がもよおしたのかと思ってしゃがみこみ、よく見てみる。
だが、その種のものではなかった。つやのある黒いかたまり。これはたしか…

(チョコレート)

そう、ちょこれいとう・・・・・・・というものではなかったか。口にしたことはないが、
私の知る限りではさして安価なものではないはずである。

なぜそんなものがここに落ちているのか?土手からはやや離れている
この場所では、転がってくるはずもない。当然、近くに落とし主がいるであろう。
そこまで考えてはたと気づいた。

緑の草の中、花が咲いたように桃色のものが見える。
目を()らしてよく見ると、それは巾着(きんちゃく)のような包みであった。
開ききったその包みからは、小さなちょこれいとう・・・・・・・ がこぼれている。その透き間から
見えるのは、手で抱えられるほどの大きさの ちょこれいとう・・・・・・・…丸いでなく、角ばるでもなく…

(ハート型)

うむ。はあと型か。たしか、心を表す形であったな。
しかしいかんな。これでは濡れてしまうではないか。

(濡れちゃえ!)

ふと、そう聞こえたような気がした。

私はその主を探して左右を見る。すると、土手に降りる階段に人影があった。
(かさ)を頭にかぶるようにして、その桃色の包みを…
いや包みの方をぼうっと眺めている。
先ほど気付かなかったのは、傘の色が緑がかっていたせいであろう。

私は、包みをつまみあげて、中の雨粒を払った。傘の中をのぞき込むと、
小柄な女の子の顔がある。

「はぁと型とは、心を現すそうじゃ。
これは、お前さんの心じゃろう?心を粗末にしてはいかんな」

どうやら学生らしい。外套(コート)からのぞいている紺色の服、
この種の服には見覚えがある。

「た…べて」

しばらくしてから、目の前の子が口を開いた。もっとも、うつむいているので口そのものは見えぬが。

顔色を見ようとかがみ込むと、この子は足に顔を埋めるように、さらにうつむいた。
しかたない。一口いただこうか。

実のところ、興味がないわけではない。ちょこれいとう・・・・・・・…話には聞いているが、果たしてどのような味のものか…

私は、大きなはあと型・・・・の回りにある、小さな はあと型・・・・を口に含んだ───



桂くん…

ふられちゃった。

いっしょけんめい、作ったんだけどな…

あたしの目の前に、チョコの包みがひろがってる。

桂くん…あたしと同じ料理部の、数少ない男の子。
『料理の鉄人』にあこがれて、料理部に入ったって言ってたっけ。

あたしが初めて作ったチョコ。桂くんのためだけのチョコ。
だけど、あげられなかった。

どうしよう。あしたからどんな顔で会えばいいんだろ。

あたしのチョコ。もう誰もいらないチョコ。

あんたなんか、濡れちゃえ!

「はぁと型とは、心を現すそうじゃ。
これは、お前さんの心じゃろう?心を粗末にしてはいかんな」

だれかの声がした。言葉がおじいちゃんみたい。

粗末…か。そうね。チョコが悪いわけじゃないよね。
あたしが悪いんだもん。ごめんね、やつあたりしちゃって。

この人でもいいや。食べてもらってよ。…桂くんには、
もう食べてもらえないんだから。

「た…べて」

やだ、声がふるえてる。…雨にぬれてるせいよね。

おじいさんの気配がする。あたしの顔を見ようとしてるみたい。やだ。
きっとぐしゃぐしゃな顔なんだもん。

どうでもいいから、さっさとチョコ持って、どっか行っちゃってよ!!

「なかなか、よいこころではないか。
…やはり返そう。これはわしには勿体(もったい)ない」

え…?

あたしは顔を上げて、びっくりした。おじいさんじゃない。
はたち過ぎぐらい。真っ白い着物に、頭の上でしばった髪。
顔も時代劇の…主役までいかないけど、ちょっとかっこいい。
わきに刀でも持ってるんじゃないかしら?

…じゃなくって!

もったいない・・・・・・
なんで?どうして…
あ、だめ。なんか、くらくらして…



困った。

いきなり倒れるとは思わなんだが、私の部屋に連れ帰って風呂に入れたまではよかった。

あの子もずいぶん濡れているようであるし、替え着を出してやろうと思うのだが…
大きさがわからぬ。

ここには必要とあらば、ほとんどの体格の者にあう着物がある。
が、あの子に裸のままで選ばせるわけにもいくまい。それでは風呂で暖まった意味がない。

考えあぐねた結果、もっとも単純な結論に達した。本体を合わせられぬのであれば、
着ているものを合わせればよい。私は早速(さっそく)、風呂場へ向かって歩き始めた。

風呂場の手前に脱衣場がある。本来この家の風呂は(かわや)と隣り合わせ
だったのだが、
無理を言って厠を移動させた。その関係で、部屋の大きさからは不釣り合いなほど脱衣場が大きい。

私はいくつかあるかごの中から、あの子のものであろう衣類をみつけて広げてみた。

外套(コート)と上着はすでに別室に干してある。ここにあるのはシャツ、スカート
…いやにしわになっていると思ってよく見ると、どうやら私の考え違いらしい。
しわにしてはあまりにも一定間隔であるし、極めて強く、とれそうもない。これは、こういうものなのだろう。
とりあえず、この二つの寸法を簡単に測る。これよりやや大きめのものを着せれば、
まぁ温かく過ごせるであろう。

問題は下着である。これは大きめというわけにはいかない。
幸い、下半身用の下着は問題なかった。私のものと違い、異常なまでに伸び縮みがきく。
大小莫(メリヤス)というくらいであるから、おそらくそう極端な体格の違いがなければ
はけるのだろう。以前に同じものをたんすの中で見かけたときには、なぜここに子供用の
ものがあるのかわからなかったのだが、これで得心(とくしん)した。

次に見つけたのは肩ひものついた、やや長めの肌着。これは非常に薄く、シャツの胴回り
とほぼ同じなのでそれに準ずることにする。

最後に残ったものが一つ。乳当てである。こればかりは私には理解できない代物(しろもの)だ。
下と同じに伸び縮みするのかと思えばそうでもなし、さりとて大きさを測ろうにも、
どこを測ればよいのかがわからない。岩を包むわけでもあるまいし、(わん)状の形を
逐一(ちくいち)測ったとて意味はあるまい。意味があるとすれば、おそらくはその容積であろう。
だがしかし、仮にも身につけるものに水を入れて、なん(ごう)入るなどと
やるわけにもいかない。

先ほどから頭の中の声が黙っているところを見ると、やつ・・もこの種のことには詳しくないらしい。

…しかたない。これだけは(あきら)めてもらおう。

測り終わると、衣類を洗濯機に放り込む。さすがにスカートだけは、この
きちんとしたしわ・・・・・・・・を壊さない自信がなかったので干すだけにしたが。

私はたんすの前に戻ると、測った値をもとに、ちょうどいい大きさの服を探してみた。



ぴちょん……

ちいさな部屋のくせに、けっこう大きなお風呂。

あたしは、その中であったまってた。

お風呂の木のワクにつかまりながら、ぼ〜っとしてる。
なんにも考えずに、ぼ〜っとしてる。ふしぎ。
さっき、土手に座ってたときは、もう死んじゃおうかなんて思ってたのに。
もうそんなことどうでもいいや、って思っちゃう。ほんと、ふしぎ。

でも、ぼ〜っとしてても、さっきからちらちら思うことがある。

あの人。白い着物を着た、背が2mもありそうなあの人。

「なんなんだろ、あの人」

おじいちゃんみたいなしゃべり方で、なんかズレてる、あの人。

考えてると、あの人の言葉が浮かんできた。

(はぁと型とは、心を現す。これは、お前さんの心だろう?)

「あたしの、心。か…」

そりゃ、心は込めたわよ。目いっぱい!
でも…

(心を粗末にしてはいかんな)

粗末になんか、してないわよ!!
なんか、思い出したらムカついてきたわ。

(…もったいない。いい心ではないか)

そのときの、あの人の顔。だめ。さっきっからこれで怒る気が失せちゃう。

そのせいかも。ムカついて、ほっとして、またムカついて、またほっとして…
繰り返してたら、なんか、どうでもよくなっちゃった。

そうよね。振られたからどうだ、ってこともないわ。また会ったらおはようって言って、
笑ってればいいじゃない。

…言えたらね。

そう、それが問題なのよ。いろいろ思ってても、口に出せないの。
チョコ渡すときだって、これ食べて、って言えなくて『こっこっこ…』だもんね。
にわとりじゃないんだから。

自分でも、これじゃいけない、って思うんだけど…

お風呂から上がって、カゴにあったタオルで頭を巻いて、で、着がえ着る。

…え?そういえば、ここって、どこ?

あたしん()じゃないわ。たしかあのあと、あの人におぶってもらって…
コートと上着脱いで、お風呂入って…で、いま、あたしが着てるのって、
見たことない服…


「お、上がったかな」

あたしは、そのまま飛びついた。着物(着流しっていうのかな?)の
首のところを思いっ切りつかんで、

「あっ、あっ、あたしのふく!?」

「あん?上着と外套はそこに干してあるが、まだ乾いておらんな。
下着のたぐいは洗濯機の中じゃ。そろそろ洗い上がるころかの」

のときのあたしは、真っ赤になってたに決まってる。

「あたしのっ、パ、パンツにっ!?」

あの人は口の中でもぐもぐ言ってたけど、すぐポン、って手を叩いた。

「ああ、下半身用の下着のことじゃな。合わんかな?お前さんのが
けっこう伸び縮みするようじゃったから、それでいいとおもったのじゃが…」

「の、のばっ!?」

変態!すけべ!ちかん!

頭の中ではいっぱいどなってたのに、やっぱり声にならなかった。
これじゃだめだよぉ!

「そうじゃ。他のはだいたいわかったんじゃが、ひとつだけ…
乳当ての大きさがわからんでな。悪いがお前さん、選んでくれんかね」

そこまで言われて気がついた。目の前の床に、い〜っぱいブラが並んでる。
バーゲンの下着コーナーだって、こんなに置いてないわよ!

はぁ。なんか、クラクラしてきた。

でもなぜだろ。この人、どうしても悪い人に見えないの。女の子前にしてブラいっぱい
並べるなんて、変態しかやらないよ〜なことされても、なんかちがう。
クラスの男の子たちや、お父さんにやられたら悲鳴モノなのに…なぜだろ?

…あ、いけない。ほんとにクラクラしてきた。目の前が回ってる。
いろんな色のブラが頭の中を走り回ってるみたい。気持ちわるい。

目をあけてられなくて、ぎゅっとつむったら…肩をつかまれたような気がするけど
…そのまま……



危ないところであった。

(ほお)けたように立っているだけかと思えば、物も言わずに倒れるとは。
あと一歩遅ければ、大事な顔があざになってしまうところである。

肩を、壊さぬ程度に支えてやる。と、倒れた理由がわかった。

熱い。

風呂上がりの温かさではない。明らかに発熱している。風呂でかえって
悪化してしまったのか。うかつであった。

ともかく、抱えあげて()いた部屋へ急ぐ。
体当たりで扉をあけ、洋風の寝床に放り込む。

布団(ふとん)をかけ、しばらく様子を見る。

小さく(うな)りながら、しきりに寝返りを打っている。
さりとて、起きる様子もない。

(まずい!)

私は大きく(うなず)いた。言われるまでもない。人がこの種の行動をするとき、
その身体(からだ)がどういった状態にあるか、それは私がもっともよく知っている。

……はて、なぜ知っているのだろう?

考えながらも、私はすぐ台所に向かった。



あつい。

あついよ〜。

でも声が出ない。なんか気持ちわるくて、ただ転がっているのがせいいっぱい。

どうしたんだろ?どうなっちゃうんだろ?苦しいのに、
うまく動けない。からだが、自分のじゃないみたい。
こんなの、はじめてだよぉ!

どうしようもなくって、ごろごろしてる。それが、なにかでおさえつけられちゃった。
力強い手が、あたしの鼻をつまむ。く…ぐるじい。

苦しくてかぱっと開けたくちに、なにか入ってくる。…う…にが〜い!!

おもわず吐こうとしているとこに、お水が入ってきた。おまけに鼻はつまんだまま。
やめてよ!い…いきできないじゃない!!

半分くらい吐いたかな?でも、あとは飲み込んじゃった。
そのあとで、あま〜い味が広がってく。アメかな?
もう、ほんとに子供あつかい。だけど…ほっとする味。

なんか楽になったみたい。頭はまだあついけど、気持ちわるくない。

あつい頭に、なにかのっかってきた。冷たい、なにか。氷みたいに固くないけど、
タオルみたいにぺとっ、ってくるものじゃない。
なんだろう?

ぼ〜っとした頭で考えてもわかるわけないわ。ちょっと目を開けて…
やっぱり、わかんない。

手のひらでも当ててるようにしか見えないんだけど、そんなことしたら、
もっと暑くなるよね。ふつう。

でも、なんなんだろ……

そんなことを考えてたら、すっと目の前が暗くなっていっちゃった。



二月十五日、晴天。

朝、窓を開ける。
この季節にしては、雲が少ない。世の人には雨を嫌い、快晴を好むものが多いが、
私はむしろ、それに寂しさを覚える。

昨夜の子はどうであろうか、そのことが頭をよぎる。すぐにあの子の部屋に
向かい、入ろうとしてふと迷った。

たしかこの種の扉の場合、礼儀としては叩くのであったか───

(ノック)

おお、そうだ。ノックする・・・・・というのだった。私は扉に向き直って、
二度ほどそっと叩いた。あまり強くすると壊してしまう。
いや、大げさではない。この部屋ができてからすでにいくつか壊しているのだ。
壁やら床やら…そんなに弱く造れと言った覚えはないのだが。

コンコン

返答がないところをみると、寝ているのだろう。私はあの子を起こさないように
そっと部屋に入ると、その(ひたい)に手を当ててみた。…どうやら、発熱は治まったようだ。

とはいえ、あれだけの発熱である。一日は寝ていた方がよかろう。
私は、この子の持っていたかばんから身分証を探し出すと、電話の前に陣取った。

市立雁ヶ谷中学校二年六組
和泉 和子

『いずみ かずこ』か。ふむ、均整の取れた名だ。
親御(おやご)さんには名相(めいそう)心得(こころえ)があるとみえる。

身分証の隅の小さな文字をなんとか解釈し、電話の打鍵(だけん)に数字を打ち込む。
そのうち、手にした送受音管・・・・から、軽い音が…

(受話器!)

わかった、わかった。

「あ、(もう)し申し。雁ヶ谷中学校ですかな?
二年六組にて教鞭(きょうべん)をとられている方にお話ししたいのですがな…」



目を開けたら、昼だった。

きのうの雨が、うそみたい。なんてことのない、いいお天気。

あつかった頭も、もう大丈夫みたい。きっと、あの人が看病してくれたんだわ。
きのう会ったばっかりなのに、なんか嬉しい。

そんなこと考えながら、部屋を出てみた。あたしの制服とかばん置いといた部屋の
扉をあけたら…あら。

目の前は、またブラのオンパレード。

…いくらなんでも、二日つづけたら変態よね。

そうやって、うんざりしながら見てみると、ちょっときのうと違う。
大きさがそろってるの。きのうはばらばらだったのに。
なんか、みんな見慣れた大きさ。

「七十八のびい」

へ?

背中から声がした。
でも…い、いま、なんていったの?

「七十八のびい、か。なにやらよくわからんが、どうやらそういう測り方があるようじゃの」

か〜っ、と赤くなるのがわかる。
78のBっていったら、あたしの、あたしの…

「な、な、な…」

なんであんたが知ってるのよ!!
そう言いたかったんだけど、やっぱり口から出て行かない。

「なに、礼には及ばぬ。やはり替えがないと不自由じゃろうてな、お前さんの乳当てをちと借りて、
下着の店に聞きに言ったんじゃ。この大きさはどのように見ればよいのか、との。
なにやらふしぎそうな顔をしておったが、親切に教えてくれたわい。一所懸命、涙までためて
説明してくれおったし…」

…それ、笑ってたんじゃないの?

でも、光景を想像すると、あたしもなんだかおかしくなっちゃう。
真っ白い着物姿のこの人が、女の子のブラ持って、商店街を歩いてる姿…
うくっ。だめ、やっぱ怒れないよぉ!

「そうじゃ。済まぬが、ちと借りたぞ」

って目の前にでてきたの、あたしの学生証。
もう、ちょっとくらいじゃ驚かないけど、なんで学生証?

「和子くんの先生に連絡しておいたわ。風邪で休むとな。
ま、今日はゆっくり休んでゆくとよい
そうそう、ちょうど良い。食事ができたところじゃ」

あらま。まめなのね〜この人。そういうとこはちゃんと気がつくんだわ。

そういえば、きのうのお昼からなにも食べてない。
気がついたら、なんかおなかへってきちゃった。
なんでもいいから、いっぱい食べたい気分。

とはいっても…うどん。だよね、これ。

目の前に出されたもの・・見て、あたしの目が点になった。

なんていったらいいのかしら。見事に、こう『うどん』って感じのうどん。
だって、ほかになんにも入ってないんだもん。ほんと、うどん。

あたしの目はしばらく点になりっぱなし。もう、自分でもわかるくらい。

「ねぎ…とか…?」

「あるにはあるのじゃがな。どうも、それをどうすればよいのかがわからん」

だめだ。このまま口べたじゃ、栄養失調になっちゃう!

「お…お台所(だいどこ)、使っていい?」

「ほう、作れるのか。これはありがたいな」

そう言って、にこっ、ってわらうの。なんか、見てるだけで照れちゃう。
おじいちゃん言葉とこのきもの姿でなかったら、ぜ〜ったいすてきだわ。

よぉし、現役(げんえき)料理部のうでまえ、見せてあげちゃう!

でも…

あたしは、台所に歩きながら考えてた。

でも、なんでうどんをそのまんま・・・・・で食べようとしたんだろ。
料理ができない、って言ったって、うどんをゆでられるんだもん。
ゆでてるとこに、おねぎ入れるだけでいいはずなのに…



夕食はうまかった。そうか、うどんというのは、
これほどうまいものであったか。
まだまだ、ここでは・・・・知らぬことが多い。

「あの、あなたの名前は、なんていうの?」

食事の余韻(よいん)(ひた)っているところへ、
和子くんが話しかけてきた。

「ん?おお、そうか。名を名乗っておらなんだな。
わしは、鉄生(てっせい)という」

「鉄生さん?」

他人(ひと)から名を呼ばれるのも久しぶりだ。
悪くない。この子の声も悪くない。

「うん。できれば、なにも付けんで呼んでくれんか。
『てっせい』という音の響きは好きなのでな」

「じゃ、鉄生。今日も泊めてくれない?
今週いっぱい、家には誰もいないから…」

なるほど。起きてもすぐに帰らぬから何かと思えば、
そういうことであったか。

「わしは構わんよ。ここじゃとて、わしのほかに誰もおらん」

「そう。じゃ、おやすみなさい」

そう言って、彼女はぱたぱたと部屋に歩み去る。
私は、その後ろ姿を見送ってから、床に就いた。



二月十六日、晴天。

食事を作ろうと台所へ向かう。と、後ろからぱたぱたと音がした。

「ごはんね。ごはん作るつもりね?」

振り返ると、当然和子くんがいた。私があいまいに(うなず)くと、
彼女は手にしがみついてくる。

「ありがと。でも、あたしがやるわ。鉄生は居間で座っててっ!」

ほとんど一息で言ったのではあるまいか?そう思えるほどの勢いに()されてしまった。

どうも、食事を作らせないために待っていたようだ。少し不満ではあるが、
昨日の夕食を考えると、まかせた方がよいように思う。

そのうち、よい香りとともに、なにかがやってくる。

「急いだから、トーストと目玉焼きね。おべんともサンドだけど、私とふたり分作っちゃったから、食べて。
それじゃ、あたしは学校いくから」

ぱたぱたと音を立てて、和子くんは学校へ向かった。
最初に会ったときと、ずいぶん様子が違う。
あの年ごろは、ころころと表情が変わるものと聞いていたが、まさか
これほどとは思わなかった。

……楽しい。



おべんと作ったから、ちょっと遅くなっちゃった。
予鈴といっしょにクラスになだれこんじゃえっ!

っと、その先に知ってる顔がいた。

わこ・・ちゃん、おはよ」

わたたたた!あたしは、両手でおもいっきりバランスを取って、
なんとかぶつからずにすんだ。

「一美ぃ!あぶないじゃない」

樹 一美ちゃん。あたしの親友。クラスも部活もおんなじ。
その一美がくすくす笑った。ひどいわ。いつもは一美の方が遅いのに…

「大丈夫?」

でも、ちゃんと心配してくれるのね。やっぱ休んじゃったし…

「うん。もう、すっかり熱も下がったし…」

「ちがうわよ。桂くんのこ、と」

「え?」

え…っと、好きなのは知ってると思うけど、まさか、その、
チョコのことまで!?

「つきあい長いんだから、見てりゃわかるわよ。
わこ・・は休んじゃうし、桂くんは桂くんでなんか落ち着かないし
…そうそう、放課後の部活のときなんか、
桂くんスポンジケーキのシチュー作っちゃうとこだったのよ」

なんか、桂くんらしい…

「ふふ。桂くんらしいよね。なんたって『めざせ、鉄人』
なんだから。おもしろい料理が多くて楽しいな」

一美ったら、しげしげとあたしの顔見るの。や〜だ。そんな趣味ないわよぉ。

わこ・・、なんか…変わったね。ちょっと、明るくなったような気がする」

「そ、そかな」

言いながら、なんとなく嬉しかった。そう、あたしにもわかるの。
なんか、みんなと話しやすくなったみたい。こうやって考えてることが、
すぅっと言葉になるの。嬉しい。

「さては、きのう男と会ってたな?」

「へぇっ!?」

自分でも恥ずかしいくらい、へんな声だしちゃった。
な、なに言い出すのよ、いきなり。…そりゃ、たしかに鉄生は男だし、
間違ってはいないけど…

「あ、桂くん!」

びくんっ!!

あたしの意思なんかおかまいなしに、首が後ろに向いちゃう。
…あれ?

「うっそぴょ〜ん」

え?あ!あ〜!!

「か〜ず〜み〜〜!!」

なんてことすんのよぉ!

「あはは、ごめんして。…でも、新しい男ができたわけじゃなさそうね」

「そうぽんぽんできないわよっ!」

べ〜だ。あたしが好きなのは、やっぱり桂くんだけよ。
なにがあっても、好きなのは好きなんだもん。いいじゃない!!

席について、授業の準備。かばんを開けて、教科書だして…
あれ、なにかある。ピンク色の…これって、あたしの、チョコ?

そうだ、鉄生から返されて、それから…わかんない。鉄生が入れてくれたのかな?

かばんに隠れて、ピンクのきんちゃくをちょっと開けてみる。ちゃんとチョコがあるわ。それに、紙がひとつ。…達筆だわ。なんて書いてあるんだろ。た…べ…

((あた)うべき者に与うべし)

…そうだね。鉄生の言うとおりだわ。これは桂くんに作ったものだもん。あたしのこと好きじゃなくても、捨てられてもいいわ。やっぱり、あげなきゃ。

「おはよ、和泉(いずみ)さん。風邪、大丈夫?」

びっく〜ん!!

こ、今度は本物だわ。この声。…だめ。逃げちゃだめ!
このチョコは、彼のためだけにあるの。嫌われたって、あげるの!!

「お、おっはよぉ、桂くん。これ、二日遅れたけど、あげるねっ!」

…はぁ、はぁ、はぁ。なんか、クラス中がこっち見てる気がする。
少なくとも、一美はこっち見てるわ。恥ずいっ!

けど、いい。もういい。さぁ桂くん、なんとでも言って!!

「やっとしゃべってくれた」

はぁっ?

そのときのあたし、まぬけな顔してたみたい。あとで桂くんが言ってた。

「だってさ、クラスも料理部も同じなのに、話しかけても(こた)えてくれないんだもんな。
おとといだって、ニワトリのまねで避けられちゃったし。てっきり、嫌われてるんだと思った」

そう言って、桂くん、一番おっきなチョコを食べ出しちゃった。
あ、あ、あ。いや、嬉しいんだけど、じゅ、授業はじまるよ!?

「やっぱ、お菓子は女の子が作った方がうまいや。和泉さん、こんど教えてよ」

あ、こんどは気のせいじゃない。クラスのみんなが、騒いでる。
でも、いいや。桂くん食べてくれたし。おいしいってほめてくれたし。

「そうね。じゃ、料理部で教えっこしましょ!」

なんか、いまのあたし、なんでもできちゃいそうな気がする!!


散歩から帰り、居間の椅子に腰を掛ける。と、頭に声が響いた。

(そろそろ…)

部屋の明かりが暗くなる。いや、部屋全体が、すっと溶けるように消えて行く。

いままで、幾度となく経験した、この感覚。このまま座っていれば、
黙って座ってさえいれば、次の場所に向かえる。だが…

「しばらく、(とど)まっていたいのぉ。ここに」

溶け続けていた部屋が、ぴたりと止まった。

しばらくして、再び扉が、たんすが、その姿を取り戻す。

「すまんの」

頭の中の声は、もう聞こえてこなかった。


へへ、今日の部活はちょっとおサボりしちゃった。
桂くんに、一度はチョコを捨てたって話したら、
鉄生に会いたがっちゃってた〜いへん。

知らない男のところに泊まったのか、だって。
…言われるまで気にしてなかったわ、そんなの。

でも、チョコ渡せたのは鉄生のおかげだし、結果を見てもらいたいわよね。
だから、桂くん連れて、鉄生の部屋に向かってるの。

「和泉さん、こっちにあるの?」

「そうよ。川の近くのアパートなの」

あれ、なんだろ。桂くん、変な顔してる。
…まぁいっか。もう、そこの角を曲がればすぐだから───…ええぇっ!!

「こ、これ…」

ぼろぼろになった、アパートだった・・・もの…

「だよなぁ。たしかこの辺のアパートっていったら、
バブルはじけたときに空き家になった、って父さん言ってたから」

そ、そんな…じゃ、あたしはきのう、どこにいたの?

頭の中まっ白になった。そのとき、背中から声がしたの。

「ほお、今日は二人か」

振り向いたところに、白い着物があった。

「今晩もうまい飯が食えると思うてよいのかな?」

「…っていったって、部屋がないじゃない」

あたしの言葉は、最後がふるえてた。桂くんが、あたしの肩に手を置いて、
うなずいてる。

「部屋がない?」

そうよ、あそこ…って指さそうとして、二人であっと驚いた。
アパート…新品の、りっぱなアパートが、ある───

あたしは、ふぅ、と息をついた。そうよ、おとといからずっと驚かされてた
じゃない。いまさら一つ増えたって、どうってことないわ!!

肩に置かれた桂くんの手、その上に、あたしは自分の手を置いた。

「行こうよ。思いっきり料理できるよ!!」