聖域(サンクチュアリ)狐狸(こり)の里』

これはとってもむかしのこと。 一匹の狸が考えました。

…わしゃあ、人間になりたいじゃ。

狸は、ずいぶんと行動的でした。西に人になった虎がいれば、追っていって話を聞き、東に人になった龍があると聞けば、海の中へでも出かけて行きました。

でも、どこまで行っても、人間になる方法がわかりません。


ある日、狸の前に狐がやってきました。

狐は、狸に向かって言います。

…お前、人間になりたいんだってな。

…ああ、なりたいのぉ。

…なってどうするんだ? 俺たちの天敵なんかに…

…うむ。天敵だからなってみたい。わしが人になって、わしらを敵とするのをやめさせたい。

…無理だろう。

…やらねば、決してかなわん。
 人は増える。どんどん増える。そしてわしらはどんどん殺されて行くのじゃ。この鎖、いずれ絶たねばならん!

…そうか、来てよかった。

…うん?

…いや、俺と同じようなことを考える奴がいる。こんなに心強いことはない…

こうして狸と狐はなかよくなり、人になる方法をせっせと語り合いました。 やがて、狐が故郷へ帰る日がやってきました。

…お互い人になったときの目印がほしいな。

…そうか、完全な人になっては、わからんかも知れんのぉ・・・ふむ、では、名前を決めようか。

…名前?なんだ、それは。

…人間は、名前と言うもので、他の人間を区別しておる。・・・さて、狸や狐では、いつバレんとも限らんし・・・

…何でもいいなら、強い名前にしようぜ。人間相手に一騒動起こすんなら、少なくとも人間より強くなけりゃ。

…道理じゃな。では、わしは「虎」にするか。

…っはっはっは・・・そんな小さな虎がいるかよ。

…ほっほっ、なるほど。ならば子供の虎、「童虎」でよかろう。

…ふん。なら俺は、もっとでかいのがいいな。人を見下ろすような・・・

…すると、「天」かのぉ。

…「天」・・・どうも聞いたことのない響きだなぁ。

…そうか、お主は南の国の生まれじゃったな。では同じ天という意味の「シオン」なぞどうだ。

…「シオン」・・うん。これなら聞いたことがある。響きもいい。よし、それにしよう!

こうして、狸は狐と別れました。


しばらくして、狸は白い服を来た人間に出会いました。

人間が、狸に話しかけます。

…人になりたがっている狸というのはお前か。

狸は答えます。

…そうじゃ、わしは人間になりたい。

…人になってどうする。

…狸の世を救うのじゃ。

白服の男は、そういう狸をじっと眺めてから、大きくうなずきます。

…よかろう、これから私の言う通りにすれば、人間になれるぞ。

白服の男は狸に、人になる方法を教えました。

狸は天を仰ぎ、地を拝み、空に身を捧げます。 すると、そこに一人の少年が現れました。狸は人になったのです。

…さ、これでお前はどこから見ても立派な人間だ。
 ところで、お前は狸の世を救いたいと言ったな。では、ここから西へ行き、砂漠を越えるとよい。地上の神様が、ちょうどこの世においでになった頃だ。方法を伺うがよかろう。

狸は頭を垂れると、すぐさま西へと向かいました。


男と別れてから、もう何日になるでしょうか。狸は、ただただ西へと向かいました。

山を越え、森を分け、川を渡り、岩を乗り越えて、ようやく男の言う砂漠にたどり着いた頃には、狸はもう心底疲れ果ててしまっていました。

いかに長生きをし、ものを知っているとは言え、所詮狸は狸です。広い広い砂漠に、水も持たずにやってきて、しかも慣れない人間の姿では、そう長く耐えることはできません。

砂漠に入って二日もすると、もう動くこともできなくなってしまいました。

…わしは、死んでしまうのか・・・・

薄れて行く景色の中で、狸は思いました。

…所詮、狸に人は変えられぬのか・・・・

まわりの景色が、すぅっと消えようとしたその瞬間、頭の中が真っ白に光り輝きます。

…童虎、起きなさい。

狸がその光を見ようとすると、光はより強く輝きます。

…さぁ、起きるのです。起きて、あと一歩、お歩きなさい。

狸は光に答えます。

…無理じゃ。わしにはもう力がない・・・

…弱虫! あなたは何のために人になったのです? 人の性をを変えるためでしょう。人間すべてと戦うものが、この程度で挫けてどうするのですか! さぁ、立つのです! そして、一歩進むのです!!

狸は、もう答えませんでした。真っ白な光も、だんだん薄れてゆきます。

…童虎、これをご覧なさい。

消えかけていた光が、またぱっと明るく輝いたかと思うと、そのなかに何か景色が映し出されます。

景色は、やはり砂漠です。その中に、やはり一人の少年が倒れていました。でも、狸と違って、その髪は見事な金色に輝いています。

…シオン!

狸はおもわず名を呼びました。と、同時に、景色の中の少年の体が、ぴくりと動きます。

…童虎・・か?

自分の名を聞いた狸の膝が、ゆっくりと前にずりはじめました。両手も少しづつ胸に引き寄せられてゆきます。

…そうか・・・そうじゃ、わしだけではなかった・・・わしだけでは・・・

狸の腕と足に、力が入りはじめました。

…わしは・・・

肘が地から離れ、

…わしは・・・

足の指に力が入り、

…わしは・・独りではないっ!!

手と足の力のすべてをぶちまけて、狸は立ち上がりました!

・・・しかし、彼の力もここまでです。立ったまま暫くゆらゆらと揺れて、たたらを踏むように足を前に一歩出したかと思うと、その場に崩れ落ちてしまいました。

狸の頭の中は、もう真っ白でした。でも、彼は確信していたのです。シオン・・・狐もまた、限界を越えた一歩を踏めたことを。

狸のまわりの景色は、こんどこそ本当に消えてしまいました。

でもその顔は、この上なく満ち足りてたのです。


…童虎、シオン。

狐と狸のそばで、あのやさしい声が響きます。

…もう、起きられるはずです。動いてごらんなさい。

二人は、起き上がろうとしました。手足は、意外にも軽く動きます。

…あの声の主がやったのか?

狐の疑問に、狸が答えます。

…それだけではあるまい。わしもお主も、あのとき己の限界を越えたのじゃ。今まで使っていた肉体が軽く感じられるのも、無理ないことじゃて。

…童虎の言う通りです。

二人の目の前が、いきなり、見たこともないような宮殿の風景になりました。

…私が、アテナ。あなた方が探している、「地上の神」です。

宮殿の奥から現れたのは、白い服を纏った、美しい女性でした。

…アテナ、われらが訪ねた理由はすでに御存知のはず。御教えを乞いたい。いかにすれば、人間が無為に狐狸を殺さぬようにできるのかを。

…・・・方法はあります。しかし、あなた方にも手伝ってもらわねばなりません。

狐の顔が、ぱっと晴れやかになります。

…おお、無論、他人まかせにするつもりなんかない。・・で、何をすればいいんだ?

…聖闘士となって、私と共に邪悪と戦ってほしいのです。

…聖闘士?・・・要するに、あんたの手駒になれって言うのか?

狐が、アテナをじろりと睨みました。

…冗談じゃない! あんたはもともと人間のための神だ。人間を守るためなんかに、俺たちを駆り出そうったって、そうはいかない!

興奮気味に捲し立てる狐を、狸がおさえます。

…アテナ。あの砂漠であなたは、わしが人間になった目的を『人の性を変えるため』と仰しゃった。察するにあなたは、人の本来は善で、今は邪悪に冒されているとお考えですな。

…その通りです。・・・今、この世でも最も恐ろしい邪悪が、目覚めようとしています。人の心が邪悪に染まりはじめているのも、やはりこのためなのです。・・・しかし、先の戦いからまだ日も浅く、いま邪悪と戦える聖闘士はいません。狐狸と人間の限界を越えた、あなた方にお願いするしかないのです。・・・どうか、お願いします。

狐と狸は、互いに顔を見合わせながら、しばらく黙っていました。 そして、ついに狐がこう言ったのです。

…神様から頼まれちゃ、仕方がないな。一つ、暴れてみようか。

狸は満面の笑みでそれに応えました。それから、二人は声をそろえてこう言ったのです。

…我ら二名、聖闘士としてここに誓う。アテナの命によりて生き、アテナの命によりて死すことを。すべては人の世の和のために、すべては狐狸の世の和のために。

こうして、狐と狸は聖闘士になったのです。


このあと、この二人がどうなったのかは、皆さんの方がよく御存知でしょう。

時は移り、アテナもその姿を変え、狐と狸は幾多の戦いの中に身を置いて行くことになります。

そして、やっとこの世に平穏が訪れたとき、二人ともこの世の者ではなくなっていたのです。


「沙織さん、見て見て」

城戸邸の居間でテレビを見ていた瞬が、軽やかな声でアテナを呼びます。

「かわいそうに…中国の方で、珍しい種類の狸が、ついに絶滅しちゃったみたいですよ。 …ねぇ、沙織さん…あれ?」


ここはギリシャ・聖域の十二宮。その中の天秤宮に、アテナが降り立ちました。

彼女は、宮の脇にある、小振りの石碑の前に膝まずいて、涙をこぼします。

「ごめんなさい、童虎、シオン。愚かな人間を…私たちを…ゆるして…」

その石碑には、こう刻まれていたのです。

すべては人の世の和のために
すべては狐狸の世の和のために

−終−


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